2011/11/23

心に残る風景

カンボジアに来る前の私は爛漫に過ごさせてもらっていたと思います。
家族、親せき、友人など自分を好きでいてくれる人に囲まれて。
思ったことを話し、受け止めてもらい、泣いたり笑ったり忙しい子ども
でした。



カンボジアに来て、そのときの身の丈にあった困難に遭遇させてもらい、
そのときなりの受け止め方、成長をさせてもらってきたと思います。
そして自分がいかに苦労をせずに過ごしてきたのかを、その経験で
知ったのかもしれません。


苦労ばかりではありませんでした。
そんな中でも私の心を癒してくれるものの1つとして目に入ってくる
なにげない風景がありました。

日本では見られない景色に注目し、写真もよく撮りました。
特に好きだったのが、空と雲。
ほぼ毎日、時間を問わず目にした瞬間に「好き」と思う風景を撮って
いました。

でも日々の忙しさ、諸々の煩わしい出来事に紛れて、いつしかそんな
こともしなくなっていた私。



昨年、初めてプレアヴィヒア遺跡に行ってきました。
タイやラオスを見渡せる丘の上にある遺跡。
タイとの領有争いもあり、戦闘状態になったり、停戦したり、まだ少し
不安定な場所ではあるものの知人が1990年代の後半に行ったという
話を聞いていて興味がありました。

行こうと思ったときに行ってみよう。
ちょうど友人が日本から遊びに来たこともあり、一緒に行ってきました。

寺院の一番先にある崖から見えたもの、それがこのブログの背景に
なっている景色。

10年目にして初めて本当に「好き」と思った風景でした。

雲が浮かび、当たり前のようにジャングルの上にその影が写り、地平線
まで見渡せるこの情景を目にした時、「私もあんなふうに遠くまで自然体で
見渡せるような心を持ちたい」と。


そして昨日、この1年半ほどで4回目の訪問(笑
(行きすぎやろ!というツッコミはナシで・苦笑)


夏の帰国以降、諸々の出来事で気分の晴れない日々を過ごしていた
私ですが、再びこの場所を訪れ「やっぱりどんなことでもきっと思い出に
なる、そしてそれを普通に話せる日がくるはず。」と再認識しました。

風景との対話。
そして自分の大好きな人たちとそこを訪れ、時間や場所やそのときの
すべてを共有することの大切さ。

次にここに来るときは今よりももう少し大きな自分でありたい。


カンボジアに来たばかりの頃、空や雲、降ってきそうなほどの星空に
感動していた気持ち。
そんな風景も日常になりすぎて、また日々の煩わしい出来事の中で
その気持ちを忘れていた私にいろんなことを思い出させてくれたこの場所。


今回も大切な人たちと一緒に来ることができて本当によかったです。

好きな仕事を思い切りさせてもらえていることに感謝して・・・
@勤労感謝の日

2011/11/17

一生見つからない答え

私の母は華道と茶道の教室を自宅で開いていたので、社中さん達が毎日
ひっきりなしに自宅に出入りしていました。
母のことを「先生」と呼び、慕ってくれていました。

私も華道や茶道はたしなんでいたので、よく自宅のお茶室に行き、社中さん
たちから一服頂いたり、私がお点前をさせて頂いたり・・・。
冗談を言いながら和気あいあいとお稽古する時間が大好きでした。

でもお稽古が終って、お道具を片づけて、お茶室やお華のお稽古場を母と
二人で掃除する時間のほうがもっと大切でした。
母を一人占めできる時間だったからです。


今でも目を閉じると瞬時にそのときに戻れるくらい鮮明な記憶です。
本当に母が大好きでした。



その母が亡くなったのは2006年の年が明けてすぐのことでした。

父からそのことを知らされ帰国してから数カ月間の記憶がほとんど
ありません。
息子を連れて日本に帰ったはずなんですが、どうやって帰ったのかも
まったく覚えていません。

いくつかのことは断片的に記憶にあるものの、カンボジアに戻ることが
できなかった約4カ月ほどの日本滞在期間、自分が何をしていたのか
いまだによくわからないのです。


その断片的な記憶の中に、葬儀の場面があります。
何百人もの参列者の方々がいらっしゃって、最期のお別れの時に皆さん
が棺に花をいれてくれるのですが、花があふれかえって棺の蓋が閉まら
ないくらいでした。


ありがたいことのはずなのに、複雑な気持ちの自分がいたように思います。
最後まで家族だけのお母さんではいてくれないのかな、と。


私はそのとき棺の近くに行くことができませんでした。
生前の母を慕ってくれていたたくさんの方々に囲まれた棺の近くに行くことが
できなかったんです。


そしていつもお稽古が終ったあとに二人で話したようなあの時間はもうありません
でした。



母は60歳で亡くなりました。
今の日本では早すぎる年齢ですね。



なぜ母はこんなに早く逝ってしまったのかということ。

母と会えなくなってしまってからもそのことが心のどこかにありました。
いつも周りを明るくし、励まし、人に尽くすことを心から喜んでいた母がなぜ
こんなにも早く逝かなければならなかったのか。

考えても考えてもわからずにいます。


今度の冬の帰国では母と話したいことがたくさんあります。
やっと亡くなった母と心で対話できる自分になってきたのかもしれません。


来年の年明け、母の7回忌。
カンボジアで暮らすことに一つも反対せずに応援し続けてくれた母としっかり
話したいです。

それでもやっぱり、母がなぜあのときに逝かなければならなかったのかという
ことに対して、納得できる答えは一生見つからないんだろうなぁ・・・。

私、本当にお母さんが大好きなんです(笑

2011/11/11

いままでも、これからも

人生の中でこれは継続できている、と胸を張って言えることが
少ない大体3日坊主の私。

その中で2つだけ継続したこと、していることを書いてみます。


1つは、大学の器械体操部のマネージャー。
地味ですが、一応体育会です(笑
1回生の時に同級生の男の子にマネージャーにならないかと
誘われて、なんの知識もなく入部。

先輩から鉄棒の技を見せられて「これがトラッキーだ」と言われ
しばらくその技を本当にトラッキーだと思っていたくらいです・・・。
(注:トラッキーは阪神タイガースのキャラクター、本当はイエガーと
いう技だったと思います・・・)



みんなの役に立った記憶はないくらいのなんちゃってマネージャー
ぶりでしたが、いまだに後輩たちと交流もあり、帰国すれば誰かと
必ず会っています。
今から思えば、体操の技もなにもわかっていないようなマネージャー
の私をみんなよく許容してくれていたんだな、と思います。

卒業式ですね。袴姿が若かりし頃の私(笑 白いですね。
もう15年くらい前ですか・・・。



そしてもう一つ私が継続できていること、それは・・・

スナーダイ・クマエでの仕事

なのです。


2000年4月にシェムリアップに移住してから今まで11年半、たぶん
嫌なことも悲しいことも、心が折れたこともたくさんあったと思います。
でもそれ以上に人生に喜びを与えてくれる場所がここなんですね。
単純なのでいいことがあるとネガティブな思い出は封印できます。
(忘れているわけではありません・笑)


体操部マネージャーと施設管理者、そこにある共通項は・・・

マネージャーにしても、施設の仕事にしても、主役は私ではないと
いうことかな、と思うんです。

選手、子どもたち、ローカルスタッフ・・・
その人たちのそばで自分に何ができるのか、そんなことを考えながら
サポートすることが好きなんだろうなと思います。

自分が主役のような扱いをされると極度に「困ります」(笑
サポートしている自分が好きという「自分好き」なくせに、自分が全面に
出されると、困る、照れる、どうしていいかわからなくなる、そんな
ちょっと面倒くさい性格なのです。


本当はできるだけ黒子でいたいというのが本音です。

いままでも、これからも・・・。

2011/11/08

始まりのはじまり

来る日も来る日も一人で施設の敷地内のゴミ拾いをしていた
2000年5月ごろ。
今でも乾季から雨季の変わり目の季節になるとふと思い出します。



今でこそ約3500坪の敷地は2棟のコンクリートの建物や、高床の
台所、食堂兼教室、養鶏場にグラウンド、畑などきちんとエリアが
分けられた状態になっていますが、当時は門の近くにボロボロの
高床式の小屋が1軒と、建設中のコンクリートの建物があるだけ。

私は建設中の建物の1階のこれまた未完成の部屋で寝ていました。
窓も入っていなくて、床はコンクリートのまま。
そこに布団を敷いて蚊帳をつって寝ていました。
プノンペンから持ってきた冷蔵庫とテレビ、日本から持参したノート
パソコンが家財道具のすべて(笑

机がないので段ボール箱をつかって支援者の方にお礼状を書く、
ものすごい昭和的な(笑)生活でした。


そんな環境よりも私が嫌だったのは、敷地内のゴミの多さ。
それにともなう大量のハエ・・・。
1つだけあった井戸は、料理、洗濯、水浴びすべてに利用し、そこに
あるたらいで野菜を洗って、洗濯もしているのを見てなんとも言えない
気持ちになったものです。


11年前のスナーダイ・クマエ孤児院のことです。


とにかくゴミを集めて燃やす。
乾季の終わりごろですから日中は暑いんですよね。
40度越えは当たり前です(苦笑
その頃の子どもたちには、連帯感、協力、思いやりなんていう感覚は
いっさいなかったので、私がゴミを拾っていても、

「あの人、暑いのに一人で何やってんだか」

冷たい視線で遠くから見ている子たちがほとんどでした。
手伝ってと言われるのも面倒くさかったんでしょうね。

そのうち少しずつ手伝ってくれる子が増えて、敷地内がきれいになり
ました。
植木もなくて殺風景だったので、デイゴの木やココナツを植えました。
土が見えてる部分には芝生を植えました。

そんな作業が今では朝夕の「作業時間」として定着したんです。


あの頃からみんなは私を「おかあさん」と呼んでくれていたけれど、
それは単なる呼び名でしかなかったように思います。


今年のカンボジア正月のとき、子どもたちが「おかあさん、下に来て!」
と呼ぶので行ってみると、なにやら儀式っぽい準備が・・・。

言われるがままに指定された場所に座ると、


ばしゃーーーーーっと水をかけられました・・・。

ナンデスカ・・・



カンボジアのお正月、おかあさんに感謝の気持ちを表すために水浴び
させて、石けんで体を洗うという習慣があるそうです。
私、11年住んでますが初めて聞きました(苦笑

足元にしゃがんでいる女の子たちは、全員で私の足を洗ってくれています。
ものすごい勢いでした(笑


こんなに緑いっぱいになった院内で、みんなから楽しいプレゼントをもらった
今年のカンボジア正月。

2000年4月にシェムリアップに住み始めた私にとって、この季節は
忘れられません。

あの頃、まったく共同作業をしなかった子どもたちがこんなふうに一緒に
笑って過ごしているんですからね。

今から思えば、あのゴミ拾いが「始まりのはじまり」。

2011/11/04

第1回KOBE豚饅サミット

神戸といえば日本における私の第2の故郷。
母校、甲南大学のある街です。

私の友人も神戸っ子が多く、その一人である安藤孝志くんから興味深い
お知らせが届いています。

安藤くんは神戸っ子なら知らない人はいないであろう、三宮一貫樓
常務取締役。

彼が発起人の一人となっている、

第一回KOBE豚饅サミット2011

が、11月に開催されるのです! (詳細は上記クリックしてご覧ください)



さらにさらにこのイベントには我らが母校・甲南大学経営学部西村ゼミの
学生さんたちも企画から参加しているとの話。
私は違うゼミを専攻していましたが、当時若手でマーケティング総論を
担当されていた西村先生はよく覚えています。
その後、施設の子どもたちが日本に招待された際、甲南大学を訪れ
先生にもお目にかかったのですが覚えていらっしゃるかしら・・・(笑


このイベントで販売されるサミット限定豚饅の売上は、東日本大震災の支援
事業に活用。
2012年1月17日(阪神淡路大震災の日)に神戸の友好都市である宮城県
名取市にて、現地の方々にあたたかい豚饅を届けることになっているそうです。


限定豚饅販売は、11月11日・12日・13日の3日間だけ!
http://www.kobebutaman-summit.com/gentei/index.html



第1回KOBE豚饅サミット開催日は、
11月 10(木)・11(金)・12(土)・13(日)・19(土)・20(日)・26(土)・27(日)

関西の皆さんも、そうじゃない方々も、神戸から日本を元気にしようという
安藤くんたちの思いが感じられるこのイベントに足を運んで下さい!!


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私も日本にいたら絶対に行くのになあ・・・。
一貫樓の豚まんはひいきじゃなく、本当においしいんですよ。
帰国のたびに必ず食べている私です(笑


関係ないですが、京都は「京都人」、大阪も「大阪人」、神戸は「神戸っ子」と
言いますよね。
なんで神戸だけ兵庫じゃなくてピンポイントな上に「っ子」なんでしょうか?
(どうでもいいわ、というツッコミはナシで・苦笑)

我がふるさと和歌山は「和歌山県民」ですよね。
(もっとどうでもええわ、というツッコミもナシで・・・)

とりあえずおいといて・・・
同級生ががんばっていると自分も負けてはいられないという気持ちになりますね。
やってることは全然違うけれど、気持ち的に切磋琢磨できるこんな友人たちを
誇りに思いつつ、私も頑張ることにします!

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2011/11/02

自分がうれしいだけの話

ナイトマーケットが好きです。

友人夫婦がレストランをしていたり、孤児院のグッズ販売をして
くれているお土産屋さんがあったりします。

友人のお店の隣はカンボジア人がカンボジア料理のお店をして
います。

そこの奥さんとはいつも現地の言葉で話します。
私は11年住んでいることを公表したくないほど、クメール語が
下手です(笑
いつも子どもたちにも苦笑されています。

でもここの奥さんの話はよくわかるんですね、不思議ですが。


昨日も2カ月後には生まれるという大きなおなかをした奥さんと
話していました。
奥さんの知人である24歳のカンボジア人女性も一緒に。

その子が私の息子を見て、
「この子は?」
と言うので、
「私の子どもだけど・・・」と答えると、






「ほんとに?きょうだいでしょ??」


ふふふ、ほんとにそう見えましたか?


続けて、「で、あなたは何歳なの?この子を産んだのはいつ?」
質問攻めです。


「私は37歳、24歳のときにこの子を産んだけど」
と答えると、



驚愕の表情で、「37歳!ほんとに37歳なの??」




ふふふ、ほんとにびっくりしてますか?




という、自分がうれしいだけの話を書いてみました(笑

ときどきこういう自慢をしたくなることってありますよね。



うれしそうにしている私の向こう側で、母ときょうだいに間違われた
息子はかなり不機嫌な表情(苦笑

ごめんよ、息子。
ちょっとくらい母を浮かれさせて下さい。

たまにはこんなどうでもよい話も書いてみようかなと思います。

そして他人の自慢話もときには広い心で聞いてみようと思います(笑
たくさんは聞きたくないけど・・・