2013/09/25

関わり続けてもらうこと

少し前に「じぶんのやくわり」と題して、カンボジアに移り住んだ頃からの
話を書かせてもらいました。

施設にも来たことがあり、夏の絵画展を何年も手伝ってくれているAちゃん
からこんなメッセージをもらいました。

施設のブログにあった子どもたちが自主的に日本語教室を開いて教え
合いをしている場面、博子さんの最近のブログで昔の様子を知ったけれど
当時からは想像もつかないことですね。

施設のブログはここから


素直にうれしかったんです、この言葉。

孤児院という活動は期間を限定したプロジェクトとしてはやりづらく、
子どもたち一人一人の成長度合いも違えば、みんなのバックグラウンドも
様々、そして年齢や性別によって対応の仕方も変わってきます。
そんな中で徐々に「スナーダイクマエのかたち」ができてきたのだなと
思います。

スタッフや子どもたちだけではなく、施設創立の最初から今に至るまで、
私がここに来てからこの今日の日まで、中断することなく支援を継続して
下さっている方もいらっしゃいます。

絵画展のお手伝いを毎年欠かさずしてくれる若い子たちもいます。

在住の、そして日本にいる友人たちには何度も支えてきてもらいました。

シェムリアップに来てから13年(プノンペン時代を入れると15年)、
ずっとずっと関わり続けてくれる人たちがいたから、子どもたちもこんな
ふうに変わることができたのだと思います。

先頭に立つ私が精神的に参ったり、核となる部分がぶれたりすることで
活動が立ち止まってしまう状態になりかねません。
心に余裕がないとスタッフにもうまく指導ができないし、子どもたちに
笑顔で接することもできなければ、細かい心の動きに気がつくこともでき
ないのです。

いつも表舞台に出してもらうのは自分ですが、そんな私を陰で支えてくれる
たくさんの方がいるから今があると思います。

そういう方々にいつまでも関わり続けてもらえる自分でいたいです。
子どもたちを育てているのは私一人ではなく、皆さんと共になんですよね。

しっかり者に思われがちですが、実際はそうでもない頼りない私なので
皆さんがいないとなにもできないのです。






2013/09/18

写真とかも載せてみますか

20130915 雨季の食堂
最近のお気に入りの1枚です。

カンちゃんとピサール。

ほんまきまぐれですが、たまーーに自分で撮った中で好きな写真も
載せてみることにします。

でもほんまきまぐれですからね 笑

2013/09/12

えんえん

このブログのプロフィール写真、実はもうかなり前に撮影したものです。
撮影してくれたのは元AERA所属の遠藤俊介君。

遠藤君は学生時代から数え切れないほどカンボジアを訪れて、長い
ときは半年ほど滞在。
ぼろぼろのスーパーカブにまたがり、カメラを携えて田舎の遺跡を
めぐっていました。
そんな中で出会う村人たちとの触れ合いをとても大事にしていました。

そんな彼から国際電話があり「ねーさん、白血病だった・・・」と告げられた
ときは絶句しました。
私の息子は電話を切った後「どんぐりぼうずは絶対に大丈夫やからね」と
泣きながら言いました。
息子は彼をどんぐりぼうずと呼んでいて、カンボジアに来た時はよく
相手をしてもらっていたのです。

2007年7月、入院中の彼を見舞うために新幹線で移動中に
訃報が・・・。
絶対に治る、絶対にもう一回カンボジアに行く、ねーさんに会いに行く、
と約束していた彼にもう会えないことがしばらくは信じらませんでした。

彼が亡くなる少し前、私は最愛の母を急性心不全でなくしていました。
続いて友人までも。

もっと生きてすることがたくさんあるはずの人たちがこの世を去って
いく、どうしてこんなことに、どうしてこの人たちじゃないといけないのか。

考えても考えてもいまだに答えは見つからないままです。


カンボジアが大好きだった彼をカンボジアのお寺に祀ってもらうことを
お母様から提案され、微力ながらお手伝いをさせてもらったのですが、
今日、彼の母校である東京工芸大学の現役学生の方が施設を訪れて
くれました。
遠藤君の後輩にあたるTくんの手には、遠藤君が亡くなるほんの少し
前にできあがった彼の写真集が。

この子の瞳の中に遠藤君が写っています
「カンボジアの子どもたち」
遠藤俊介
連合出版
施設の子どもたちに見せたいということで持ってきてくれたのです。

Tくんは施設の場所がわからず、市場の近くにある雑貨屋さんで日本語の
できるカンボジア人に声をかけて場所を訊いたそうです。
それがなんとうちの卒業生のサイハー。
知ってるもなにも自分が住んでいた場所(笑
バイクに乗せて連れて来てもらっていました。

少しお話をして遠藤君のいるワットアトビアという寺院に移動しようと
思ったその時、別の卒業生サヴィが施設を訪ねてきました。
一緒に行こうということになり3人でお寺に。

サヴィの案内で無事にお坊さんと話もでき、お参りを済ませることが
できました。

ワットアトビアは遺跡があり、そのすぐ横に寺院があります。
遺跡が大好きだった遠藤君、ここなら満足してくれるかなと、そんな思いで
このお寺を選びました。
この遺跡のすぐ外が寺院


卒業生がTくんを孤児院に連れて来てくれて、また別の卒業生がお寺まで
案内してくれる・・・。

これはきっと遠藤君のいたずらやね、とT君と笑いました。

ふと車の外を見たときの景色
えんえんと一緒に見ている気持ちで・・・


えんえん(と私たちは呼んでいました)、ご無沙汰してしまってごめんね。
また会いに来るよ。


生きたくても生きることができなかった人たちが身近にいる。
そう思うと命がある限り精一杯生きようと思うのです。
後悔のない人生を。

立ち止まりそうになるときに背中をそっと押してくれる、そんな人たちなのです。

2013/09/04

じぶんのやくわり⑦

2009年のある日、久々に施設を訪れた夫が私に告げたのは
離婚の意思でした。
口に出さなくてもそうなるだろうと思い続けた何年間があったので
私としても当然の流れ、落ち着いてその話を聞いていました。

君と僕は合わない


彼のその言葉から1年、離婚にかかる手続きはようやく終わりました。

戸惑いや葛藤、忙しさにまぎれて一番大切なことをないことにして
過ごしてきた自分にとって離婚という着地点が見えたことで正直な
ところ、やっとここに到着した、ようやく彼から卒業できるという
ほっとした気持ちでいっぱいでした。
向き合うべきものを避けてきた日々のほうがよっぽどつらかったと
思います。
避けてきた結果、私は夫がどういう人なのか最後の最後までわから
なかったし、それはきっとお互いにそうだったのでしょう。



さて、これで私のスナーダイ・クマエでの立ち位置をようやく明確に
することができました。

最初は何ができるのかもわからなかったこの場所で、ゆっくりと時間を
かけて自分がさせてもらえることを見つけてきました。

子どもたちと掃除に明け暮れた日々、
一緒に泣き、笑い、共有してきた時間、
叱っては嫌われ、叱り続けてようやく私の気持ちも伝わり、
喜びを分け合う幸せがあります。

私にとっての「役割」は、ひらがなで書く「やくわり」のほうがしっくりきます。
マイペースで、楽観的、そして長期的な視野で子どもたちの成長に合わせて
やくわりを変えていけばよいのだと思っています。

離婚をきっかけに心の余裕ができました。
もう前の夫の施設ということを前提に「役割」を演じる必要がなくなりました。
私にとってあの日を境に新たな心構えでスナーダイ・クマエに向き合う
ことができるようになりました。

子どもたちと私のいる場所として、子どもと同じように成長し続ける
スナーダイ・クマエと共にのんびり歩んでいくこと。
その中で、親から伝えてもらった大切なことを子どもたちにつないでゆき、
活動を支えてくれている方々への感謝の気持ちを子どもたちと一緒に
感じ、そこから他者への思いやりを生み出していくこと。

私がここで生きていくことができるのは、自分にとって大切な人たちがいるから。
一人ではないと思わせてくれる支援者の皆さん、友人たち、関わって
くれているすべての皆さんがいたからです。
子どもたちにも「一人ではない」ということを感じ、強くて優しい人になって
欲しいと思っています。


漠然としていて、はっきりこれといえるものではないけれど、私にとって
スナーダイ・クマエにおける「じぶんのやくわり」は必要に応じて変化して
ゆくのだと思います。
核になる部分だけがぶれなければそれでよいのです。

これからどんなふうに変わっていくのか、自分でも楽しみです。
誤った執着心でみんなを縛り付けることのないように、柔軟な心で細かい
動きを見つめていこうと思っています。

それそのものが「わたしのやくわり」なのかもしれません。


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⑦まで書いた「じぶんのやくわり」、いったんここで終わりたいと思います。
かなりかなりはしょって書いていますので、また気が向いたらテーマを
絞って書きたいなと思っています。

前から書こう書こうと思いつつ、なかなか進まなかった作業でした。

ここまでお付き合い下さった皆さん、ありがとうございます。
また突然何かが始まるかもしれませんが、そのときはよろしくお願いします。





2013/09/03

じぶんのやくわり⑥

ふう・・・とうとう⑥まできてしまい収拾がつかない感満載となって
参りましたワタクシのブログ・・・(笑
そろそろまとめに向かって書いてゆきたいと思いますので、もう
少しだけお付き合いお願いします。



こうして徐々に子どもたちとの距離をつめてゆき、共有する時間、
体験が増えていったこの頃の私。
それでも一番の悩みは、気持ちを伝えきれない、ということでした。

クラスメイトにすぐに先生になついて仲良くするような子がいましたが
私は全然そういう風にできない子だったので、子どもたちが容易に
心を開かなくても「ゆっくりいこう」と思えたのかもしれません。


管理運営責任者という肩書きからは程遠く、毎日毎日子どもたちの
時間割を作り、それにそって一緒に行動するということを続ける
しかありませんでした。
他にしていたことはスタッフミーティングと会計、お礼状や報告書の
送付、メール返信などでした。
いつからか時間割の作成や週間、月間の予定をスタッフが自分で
できるようになり、報告を受けてチェックするようになりました。

子どもたちを叱っても、翌日には普通に「おはよう」から始まるように
なったのもいつからかはっきりと覚えていません。
それまでは叱った後3日くらいは私を避けたり、ひどいときはみんなと
同じスケジュールを無視し、食事も拒否されることも。
そのたびにむなしい気持ちともっと近づきたいという思いの間で
いったりきたり。

一度自分が真剣に関わった人たちとの関係を簡単に放棄することが
嫌いな自分に気がついたのもそういった経験からかもしれません。


現場にいる私が夫の教育方針(厳しく叱りつけるやりかた)に合わせず
自分なりに「時間がかかっても理解させていく」というやり方を続けて
いくことで、夫に選ばれて働いていたスタッフが混乱することもあり
ました。
「自分にとってのボスはどちらなのか」と。
それでも私が現場でやって行く姿を見てスタッフが理解を示してくれて
いたと思います。
それに反比例するように夫との溝は深まって行きました。
次第に孤児院運営に興味を持たなくなった夫。
こんな状況でこの先どうしていけばよいのか・・・と。

一時帰国したときに友人が言いました。
「こうでないといけないということなんてなにもないんじゃないのか。
気持ちをニュートラルにして、自分のやりたいと思うように持っていけば
いい。」
たしかにその頃の私は「これしか選択肢がない」という考えにはまって
しまっていたように思います。

最近のことですが違う友人に、「私は長年ここでやってきたけど専門と
呼べるものはなにも持っていない。」と話すと、
「あなたの立場は専門ではなく、総合的に物事を把握できればよい。」
と言われました。

この二つの言葉、そのときの状況は今でもよく思い出します。

2000年からここで暮らし始め、どたばたと過ぎていく日々。
そこから少し余裕を持って全体を見ていこうと思えるときがきました。
いつかこの日が来るだろうと心していたときがやってきたのです。

それは11年間離れて暮らしていた夫の口から出た言葉で始まりました。

2013/09/01

じぶんのやくわり⑤

もう⑤になってしまいました(笑
なんとなく書き始めてしまったのでなかなかまとまらない
模様です・・・。




私が施設に行ったばかりの頃に決まっていたのは、食事の時間と
牛に草を食べさせる当番、そして夜間の自習時間でした。
それ以外は適当に好きなように過ごしている様子。

そして物がなくなったりしてもみんなどこ吹く風。
知っているかどうか訊いても関係ないという感じで「しりません」で
終わり。
どこかが壊れて「誰がどんなふうにやってしまったのか」と訊いても
「しりません」。

うーーーん・・・。
怒られると思って言わないようでした。
たしかに夫やスタッフの対応を見ていると、そうなってしまった理由
を訊くわけでもなく、どうしてそれがだめなのかを説明するでもなく、
ただ「怒って」いました。
私も子どもだったらひた隠すわ・・・と思うくらい。


まずは理由を訊くこと、怒りたいのではなく理解してほしいと思って
いるということをわかってもらわないと伝わらないなと思いました。


当時は今のようにみんなが仲良くしていたわけではなく、そのときどき
で対立していた男の子たちの顔いろを見てグループに分かれてしまう
ことがよくありました。
あるとき原因は何か忘れましたが、一番体格のいい男の子と少し
小さめの子が口論になり、わめき声を聞いた私がかけつけたときには
小さい子がレンガを振り回して殴りかかろうとしていました。

まずいなあ・・・と思い、気が付いたらその二人の間に割って入って
いました。
殴られるかもしれないと考える暇もなく・・・。

150cmで小柄な私が自分よりも大きな男の子がつかみ合いの殴り
合い、しかも手にはレンガと言う状態の間に入って行ったのでみんな
驚いていましたが、さすがに私を殴りつけるわけにもいかずなんとか
その場は収まりました。


けんかのあとにみんなを集めてちょっとしたミーティングをしました。
二人だけが悪かったのか、その前から周りの人が何かできることが
あったのではないか、私の問いかけにそのときの子どもたちは何も
答えることはできず、最後に二人が謝って終わりました。


なるほど、ちょっとずつわかってきました。

自分で物事を考える機会を与えられていないんだな、と。
自分に注目し、気になることを助言してくれるその裏側にある思いやり
に気づく機会もなかったのかもしれません。

でもそのときの私にはまだ敷地内を清潔にすることしかできなかったのです。

なぜなら、叱って聞いてもらえるほどの関係を子どもたちと作れている
とは思えなかったから。

朝6時に起きて掃除をしたり、ちびっこの洗濯をしたり(たらいに5杯分くらい
です・笑)、食事の後片付けをしたり・・・1日24時間では足りないくらい
とにかく掃除、洗濯、洗い物の日々でした。

あるとき女の子数名が言いました。
「おかあさん、洗濯はもうしなくてもいいです。私たちが手分けしてやるから
休んで下さい。」

子どもたちとの関係が少しずつできてきたかな、と思える瞬間でした。