2014/11/21

おなじときを歩んで2

今日もチョムランのことを書きます。


彼がここに来た時は一生懸命虚勢をはって「自分は何も怖くない」と
いいながら夜に真っ暗な建設中の敷地内の建物の中に入っていったり、
誰とも仲良くしようしなかったりしていました。

標準よりもずいぶん細くて小さい体でそんなことをする彼を見ていると
とても悲しくなったのを覚えています。
ここでそんなことしなくてもいいんだよ、と心の中で思いながら当時クメール語
がまったくできなかった私は言葉ではない表現を選ぶしかありませんでした。

そして髪や体の洗い方すら知らなかった彼を自分の息子(当時2歳)と共に
シャワー室で洗ったり、爪の切り方を教えたり・・・
まずは自分の身の回りの基本的なことができるように、実際に私がやって
見せながら教えました。

そんな日が続いたあるとき、夕方だったと思います。
外に座っていた私にチョムランがトコトコ近づいてきました。
なんだろうと思っていると、横に座りこう言いました。

「おかーしゃん」

彼が初めて発した日本語です。

私は驚きつつもうれしくて、チョムランの肩を揺らしながら「もう一回!もう一回!」
と日本語で言いました。


そんなチョムランが今では日本語でスピーチを書くまでになったのです。

幼い頃のチョムラン、私の息子と共に
私はチョムランの原稿を読んで一人部屋で涙を流しました。
つたない日本語の中に、両親への「なぜ?」という思いや、スナーダイ
クマエを本当にいいところだと思ってくれている気持ちが詰まっている
ように感じられたからです。

生まれる場所や環境を自分で決めることのできないのが子どもです。
どんな大人に囲まれ、どんな言葉をかけられて育っていくのか、それは
一人の人間のその先を決めていく重要なカギになると思います。

それはチョムランだけではなく、他の子どもたちもみんな同じ。
そしてうちにいる子どもたちはみんなそれぞれに家族や村での出来事に
対する思いを持っているはずです。

私たちは起きてしまったことをなかったことにはできません。
でもそれはそれとしてこれから新しく前を向いていくために、少しだけ
背中を押すことはできると思っています。
それぞれの思いを簡単に「わかるわかる」などということはできないけれど、
これから先は一緒に歩いていく人がそばにいるよということを発信する
ことはできますよね。


私はスナーダイクマエにいる子どもたちにそんな気持ち、まなざしをむけて
やってきました。

あいかわらず勉強が苦手なチョムランですが、なにがあってもあなたの
味方だよという気持ちはずっと伝え続けていこうと思っています。

私もチョムランの言うように、がんばります。









2014/11/19

おなじときを歩んで1

一人の男の子がスピーチ原稿の添削をしてほしいと持ってきました。

チョムラン18歳。
今年から高校1年生になりました。
まずは彼の書いたスピーチを読んで下さい。

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「まけないで」

私は貧しい家族に生まれました。私の両親はいつもお酒を飲むので
子どもたちの将来はどうなるのかということを考えませんでした。

ある日私の両親はお酒が欲しいけどお金がないので買うことができ
ませんでした。
お金が欲しかったので子どもがいない家族に、「子どもが欲しいですか?
欲しかったら私の子どもを売ってあげるよ。」とききました。
私の両親にとって自分の子供は大切なものじゃなかったのでしょう。
たぶん動物と同じと思っていたと思います。
どうして私の両親は自分の子どもを売るのか私は知りたいです。

私のきょうだいは5人います。4人は両親が売りました。でも私は運が
よかったのです。おばは両親が子どもを売ってしまったことを知ってい
ました。
そのときおばさんは両親を叱りました。「なんで自分の子どもを別の
家族に売ってしまうの?」
おばさんは両親と話してから私を自分の家に連れて帰りました。

おばさんの生活はあまりよくないので私の将来を考えて「スナーダイ・
クマエ」という施設に連れていきました。
そこは子どもたちの将来のために無料で勉強をさせるとてもいいところです。
「スナーダイ・クマエ」に私を送ってからおばさんは家に帰りました。

そこに入ってから英語や日本語などを勉強させてもらって本当にうれし
かったです。
それからもう14年です。今、私は18歳で今でも「スナーダイ・クマエ」に
住んでいます。
毎日勉強を頑張っています。

初めてここに来てから今まで日本人のお母さんが色々なことを助けて
くれています。彼女に恩返しがしたいので私は一生懸命お手伝いとか
勉強とか色々なことをがんばっています。今は日本語の先生がいないので
自分で勉強します。
話したいときはできるだけ話します。先生がいなくても自分でがんばったら
いつかできると思います。

皆さん、じぶんがやりたいことがあったらやってみてがんばって下さい。
なせばなると思います。皆さん、なんでも負けないでがんばりましょう。

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私がシェムリアップに住み始めたのは2000年。
そして私が初めて自分の判断で施設に入れた子どもがチョムランです。
当時5歳と言われていましたが、生年月日もわかりませんでした。
(カンボジアでは今でも農村部に行くと生年月日不詳のことが多いです)

私は「この子は実家が貧しくて売られていたんだ」と聞いていました。

今のカンボジア生活はこの子が入ってきたのとほぼ同じに歩んできた
とも言えます。

チョムランは体は小さく、学校の勉強も苦手でした。
小学校は何度も落第し、中学校の卒業試験にも1度落ちています。
それに合格できないと高校に進学ができないので、そのときに彼にきいた
ことがあります。

このままもう一度中学3年生をするのか、職業訓練を受けて働くか。

チョムランは迷いなく「僕は勉強したい」と言ったのを覚えています。
勉強が苦手で、成績も悪く、試験で落ちることもよくあった彼ですが
学校も勉強も「嫌い」ではなかったのですね。
私は「もう一度だけ中学校に行ってもいいけど、今度試験に落ちたら
将来についてもう一度私と一緒に考えましょう」と答えました。

限られた予算の中で子どもたちを養育し、そんなに余裕のある運営をして
いるわけではありません。
もちろんチョムランもそのことはわかっていたと思います。

そして2度目は卒業試験に合格し、高校生になることができたのです。
彼よりもずっと後でここに入ってきたラタナーと同じ学年になりました。



ちょっと他の用ができて席を離れるので、また次回続きを書きます。