2015/03/24

継続は力なり、なのであります

またまた更新怠ってました。というか、何年同じこと言い続けんねんという突っ込みは
拒否します、メアス博子です。
久々更新で文章ながっ!というコメントも拒否です、よろしくです。(笑




昨夜、うちの敷地内でカンボジアの伝統芸能である『スバエク・トム』の上演がありました。
その前日に施設訪問をして下さった長野県のNPO「ふるさと南信州緑の基金」の皆さん
から子どもたちと一緒にスバエク・トムを鑑賞する機会をというお計らいでした。

スバエク・トムは影絵芝居です。
民話など親しみのある物語を描く『スバエク・トーイ』と、古典を伝える『スバエク・トム』が
あります。
スバエクは皮、トーイは小さい、トムは大きいという意味で、水牛の皮から影絵を制作する
ことからこのように呼ばれ、その名の通りスバエク・トーイではこぶりの影絵、スバエク・
トムでは大人でも持つのが大変なくらい大きなものを使用して演じます。

カンボジア旅行された方は伝統舞踊を見ながらの夕食というもはや定番のコースを
体験することが多いと思いますが、伝統舞踊と同じようにこの影絵もポルポト時代を
生き抜いた人々から受け継がれています。

この影絵芝居復興に尽力してきたのが、日本人の福富友子さんです。
私は1997年からお付き合いさせて頂いています。
「カンボジア指さし会話帳」著者と言った方がわかりやすいかもしれません。

福富さんは影絵芝居を復興させるために影絵一座の長老宅に住み込み、せりふを
おこして日本語に訳するという膨大で地道な作業をやってのけた方なのです。
もちろんクメール語はペラペラで、現在は日本の大学でも指導されています。
福富さんがその作業を行う前、物語の内容やせりふは演じ手の記憶にあるのみで
文献として残されていなかったと聞いています。

福富さんはその性格からか目立つこともなく、ただひたすら地味にこの活動をやって
こられた、知る人ぞ知るの存在なのです。

芝居を始める前のお祈りの儀式
この写真の儀式が行われるとき、福富さんも自然にお供えに手を合わせていました。
その姿からこの影絵一座と福富さんの強い関係性を垣間見たような気がします。

私が福富さんに初めて会ったのは1997年のプノンペンでした。
たしかあの頃はそろそろ本腰を入れて影絵復興に関わろうとしていたように記憶
しています。

それから誰に主張するわけでもなく、自分が興味のある影絵芝居の復興に静かに
関わってこられたのです。
日本での公演を何度も成功させていますが、やはりなんといっても若い世代に
この伝統を引き継いでいく手助けをし続けていること、関わり続けていることが
一番の功績だと思います。
今回の一座の中にも他の大人よりもかなり体格の小さい子が演じているを見つけ
ました。
左手の方の2人は子どもでした
彼らに伝統が受け継がれていくんですね。


福富さんに言うと、そんな壮大な話じゃない、自分のやりたいことを続けてきただけと
笑って答えそうです。

誰にでも挑戦できるかもしれない、でも誰でも続けられることではないと思います。
それはそのとき自分を取り巻く環境であったり、人との出会いにもよりますが、やはり
一番重要なのは、その人の志です。

私はカンボジアで施設に関わることになった最初のきっかけは福富さんとは違う形
だったかもしれません。
ただ共通していたことは、「やめなかったこと」。

やめるという選択肢もあったと思います。
でも福富さんも私もやめなかった。

そして福富さんの関わる影絵一座が、うちの施設で上演するというめぐりあわせに
なりました。

続けていると初めは見えなかった風景を見させてもらえるものですね。


ときどき思うこと、カンボジアで専門的な知識や技術を使い活躍している人たち
に比べて、自分は何にもないなあと。

幸い私は、関わることで少しずつ自分にとってかけがえのない場所となったここ
から去ることなく今も関わり続けています。
福富さんのように語学で貢献もできないし、他になんの専門も技術もないというのに。

やってきたことといえば「やめなかったこと」だけかもしれない。
やめずにいられたのは周囲の人たちに恵まれていたからでもあります。
どんなに続けたいと思っても、環境がそれを許してくれなくなることだってありますから。

そして専門性のある人もきっとそういうと思います。
「やめなかっただけですよ」

カンボジアで地道に活動を続けられている方の顔が何人も浮かびますが、皆さん
そう言いそうな気がします。
それはビジネスでも、その他の活動でも同じこと。


やっぱり「継続は力なり」なのであります。
もっと言うと、継続させてもらえることに感謝、でもあります。
だってカンボジアの人たちに望まれないのであれば、続けることもできないです
もんね。邪魔にならないように・・・。


影絵のために焚かれた松明のもとで、そんなことを思っていたのでした。
そしてまだ見ていない風景がまた見られるいつかを楽しみに、地味に続けていきたいと
思うわけです。



2015/03/04

見えてきた答え

大学生の長期休暇である春と夏は私の運営する施設への訪問希望が増える
季節でもあります。

色々な方と会うので、それぞれの今置かれている立場や価値観などによる
質問を受けます。
昨日はある質問を頂いたことから探していた答えが見えてきたような気が
したのでそのことを書こうと思います。


私の母は60歳で急逝しました。急性心不全、周りの人は誰一人母がこんなに急に
逝ってしまうなどと思ってもいませんでした。
10年前のことでした。

そして父は昨年すい臓がんと診断され、自宅療養ののちに母のもとへ逝きました。

母が亡くなってからずっと、なぜこんなにも早く逝かなければならなかったのか、と
思い続けています。
そして父が亡くなってからはまた別の思いが生まれました。
それを言葉にするのにぴったりな表現がよくわからないのですが、「父と母がこの世
にいたその意味について」なのかもしれません。
なんかうまく言えないのですが。



昨日訪問して下さったのは名古屋大学の先生と学生さんの一行。
学生さんの中には私が日本でお話をさせて頂いていたときに来場してくれていた方も
含まれていました。
施設の歴史、概要を一通りお話しした後で皆さんから質問を受けました。
最後に先生から、
「これまでの話を聞く限り、本来このような(精神的にも)ハードな活動をし続けるには
例えば宗教などのような心の拠り所がないとなかなかやってこれないのだと思います
が、博子さんの場合は個人の持つパーソナリティで進んできたように感じます。
あなたのそういう強さというか、進んでいくための支えとなったものはなんでしょうか?」
というようなご質問を受けました。

これまでにも同様の質問を頂く機会は多く、私は一人でやってきたわけではなくて
スタッフも子どもたちも、家族も、友人も、そして多くの支援者の方の存在そのものが
支えだとごく自然に考えていました。
それは今後も変わることない一つの答えです。

昨日はもう一つ別の答えが自分の中に湧いてきました。

「父と母が生きてきた意味をつないでいく作業だから辛いと思うことは少なかった
のかもしれない」

ということです。

小さい頃から母が身につけさせてくれた家事や人とのお付き合いの仕方、父が
教えてくれた生きていくために必要な物事の考え方、それを息子や子どもたちに
伝えていくことで二人が生きていた意味をさらに磨くことができるのだと思います。

それはなにもカンボジアでなくとも、どこにいても大切な人の命を輝かせる
作業として誰にでもできることなんですよね。

息子を出産したときの母の言葉、「命のバトンタッチができたわ、ほっとした」
バトンを渡された私はこれから息子やここにいる子どもたちにまたそれを渡して
いく、ありふれた当たり前のことかもしれないけど、力強く手渡していきたいです。
それは両親がみんなの中に生き続けることにつながりますから。

大切な人の命、それは私という人間の基礎となる部分を築いてくれた両親と、
今そばにいてくれる息子や子どもたちです。
大切な人と共に生きるという営みだからこそ、なにがあってもたとえ少しずつでも
前に進んでこれたのだと思います。
それが私を支えるものだったのだと、かすんでいた向こう側が少し見えてきました。

『要するに私は両親のことが大好きなんでしょうね』
気がついたら、質問してくれた先生に笑いながらそう答えていました。


 
「やっと気づいたかー」という二人の声が聞こえてきそうです。笑

こののんびりした気質も、しんどいことをしんどいと思いすぎずに
やってこれた要因なのかもしれません。

まだこれからもいろんな答え合わせが待っているんでしょうね。
ぼちぼちいきます。