2017/03/27

いつか返せるもの

恐ろしいことに今年に入ってまだ一度もこのブログを更新してない
ことに今さっき気づきました。
3か月以上も放置したらもはや誰も読んでくれないのではないだろうか。
でもまあいいか。書きたいことが出てきたので書きます。

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友人夫婦に子どもが生まれて1年が過ぎました。
首が座っていないころからよく抱っこさせてもらい、今では一人で
歩くようになったその子を見ながら、自分の子育てをおさらいして
いるような気持ちになります。

私は2歳になる前の息子をシェムリアップに連れて来て、本格的に海外
生活が始めたのですが、当時からカンボジアの人たちにものすごく
息子をかわいがってもらいました。
友人夫婦もカンボジア在住で、自宅の大家さん一家をはじめカンボジアの
皆さんにもお世話をしてもらっているようです。

その友人以外にももう少し大きな子どもを持つお母さんたちと接点が
あるため、子どもたちと触れ合う機会もよくあります。

子どもはかわいいけれど、自分勝手で思うようにいかないと怒ったり
駄々をこねたりもします。
おなかがすけば食べ、眠いときに寝ます。親の都合はお構いなしです。
思春期になると顔も見てくれない、話もしてくれないなんてもことも。
親だけでは限界がある部分も周囲にいる大人たちが手を差し伸べて
くれ、大いに助けられた経験があります。

私が離婚しても日本に帰らなかったのは息子の教育をカンボジアで続け
たかったことが理由の一つに挙げられます。
ここにいる人たちの多くは子どもに興味を持っています。
子どもに無関心な人が少ないので、色々と世話を焼いてくれます。
それをおせっかいととるかどうかは自分次第かもしれませんが、
私にとってはそれが安心感につながっていました。
ここでは大人が子どもに関心を持てるだけの時間の流れがあります。

ずいぶん前に長年お付き合いのある方が「子どもは社会で育てるもの」と
おっしゃっていました。
10年ほど前の話です。
今はしみじみとその言葉をかみしめています。

息子が赤ちゃんのとき、たくさんの人たちが息子を抱っこしてかわいがって
くれました。それは一緒に暮らしていたスタッフや子どもたちだけではなく、
街で出会った人やレストランの従業員の人など、知り合いでも友人もでも
ない人たちも含まれています。
息子が10代になって私には言いたくない話ができても、友人夫婦やその他
の友人が聞いてくれていたそうです。
そのときに母親の私の気持ちも代弁してくれていたそうです。

息子がホテルで働き始め、仕事の話をしてくれたり、悩みながらなんとか
前に進もうとしている姿を見ていると、ここに至るまでにどれだけの人に
お世話になってきただろうと思うのです。

私はカンボジアの人々や日本人の友人たちにたくさん甘えてきました。

だからこれからはみんなが私や息子にしてきてくれたことをお返しして
いきたいと思っています。


子どもを他人に触られたくない?
知らない人に子どもを注意されたくない?
自分の子どもは自分で育てるから、他の子どもには無関心でもいい?

単純にそれはとてもさみしいことだと思います。
子どもにとってもさみしいことだと思います。
それに現実的に誰の手も借りずに子育てすることは難しいと思います。

親以外の色々な立場の大人たちに大いに関心を持たれ、溢れんばかりの
愛情を受け、そうやって大人になった人たちはきっとまた自分の子ども
だけではなく他の人の子どもにも同じことをするでしょう。

社会の構造や人の考え方が違うから、カンボジアと日本を単純に比べるのは
難しいけれど、人とふれあいを持つことはそんなに怖いことでも悪いもの
でもないとわたしは思うんです。

自分がそう思えるのはきっと、自分自身が子どものときにたくさんの大人
の手によって育ててきてもらったからなんでしょうね。
そして息子が同じようにしてもらえることに抵抗なく、むしろありがた
く感じることができました。

友人たちの子どもたちが私に向けてとびきりの笑顔を見せてくれるとき、
今が自分にとっての恩返しのときなんだなと思うんです。

それは友人の子どもたちを大人としてのまなざしで見つめ接することであり、
施設に若い年代の訪問者が来てくれた時に自分の経験から出る言葉を
持ち帰ってもらうことでもあります。
自分よりも年上の先輩方に直接恩返しすることは難しいけれど、その方々の
気持ちを次の世代に伝えることで恩返しにさせてもらいたいと思っています。

自分の考えを人に押し付けるつもりは全くないけれど、わたしはそう思う。
共感してくれる人がいればうれしいし、そんなの心には響かないという人が
いてもいいと思っています。

そういうお話です。